3年3ヶ月がたち・・・被災地レポート 2日目
どうも、ルイです。
6月28、29日に被災地へといったレポートの2日目になります。
1日目のレポート記事はこちら
http://greenflash2499.blog.fc2.com/blog-entry-5492.html
1日目
この集会所にはオイラとフリージャーナリストのアフシンさんと臨床心理士の相馬さまの3人で宿泊。
仮設の集会所に強くたたきつける雨音が子守唄のように、寝袋にくるまり、あえなく爆睡。
朝7時まで、2回雨音でちょっと目覚めたので実質8時間は寝れたのでしょうか?
アフシンさんも早い時間に寝て、「久しぶりにたくさん寝たよ」と、 グッスリ眠れたようだ。
臨床心理士の相馬さまは24時間対応でココロのケアをしているので、睡眠時間は必然的に少なくなり「雨の日の夜だと精神が不安定になりやすいので電話が多いんだよ」と言ってまして、朝聞いたら午前4時まで対応していた模様、申し訳ない気分になりましたしオイラだと以前店長の立場で同様の経験はあるけど精神的に参ったために「自分では到底できないな」と感じた次第であります。
それだけ献身的に対応するので仮設内で信頼されているんですね、すごい。
朝食をまたもや旧小高町町長で仮設住宅に避難している江井さまのお宅でいただきました。
ホント、美味くて感動でした(T0T)
2日目は相馬さまの案内で入れないような場所へと向かいます。
案内として初日に小高の海岸の流された家の持ち主であり昨夜いろいろ話を聞かせてもらった「鎌田さま」が一緒に行くことに。
江井さまは、この日仙台まで所用で残念ながらここでお別れとなります。
天気は雨が降ったりやんだりの雲行きでしたが、夜の豪雨は落ち着き傘はいらないかな?というぐらいの天気、晴れ男を自負する自分、晴れ男とはいえ「ギリギリ持たせる」を得意(特異?)としているのでいかにも「らしい」天気ですね。 このまま持てばいいのですが・・・・。
さて、また浪江町へとはいっていきます。
昨日同様、そのままの光景が広がってました。
4人を乗せた車は、やがて警戒区域による関門へ。
ここを越えなかなか入れない場所になります。
まずは、浪江の街中を・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ちょっ!こ、これは・・・・・。
震災後1カ月の時に茨城県の笠間や水戸でみた民家の痛々しい姿、しかしそれは1カ月であり、今は3年3カ月が経っている・・・・・。
そんなことを踏まえて写真を並べていきます。
そのまま、なんですよ。
時間が止まった「世界」がここにありました。
この状態で、一時帰宅可能地域って・・・どうするの?とも言いたくなるような。
帰れるようになっても「帰れない」ふるさと浪江。そのまんまの光景が広がってました。
お役所はこのモニタリングポストの数字でしか線引きしてないのかな?
生活をどうするか「ソフト面」のフォローが一切感じられないように思えました。
さて住宅地を過ぎ、浪江の漁港へと車は向かいます。
まだ港まで距離のあるところからガレキと船がそのままにあります。
そして、車は漁港へと向かうのですが・・・。
その雰囲気や、もう言葉すら出ないほどの光景が広がってました。
この場所で原発のある場所から4kmほどです。
時折アフシンさんの持っていた線量計がなるものの、全体的にはそこまで高くはありませんでした。
では、携帯で撮った浪江漁港の写真を並べておきます。
ここでアフシンさんが、同行していた鎌田さまにインタビューをしてましたのでちょっと横から撮りました、自分も鎌田さまから聞いた話だと、こんな状態でも「漁港」は再整備するとのこと。
(重機も入っていた)
でも、ここだけ戻しても、誰が戻るのか?と嘆くように語っていたのが心に響きました。
やはり「ハード」のことしか考えてない・・・・!
今(2014.7現在)、自分のフェイスブックのカバー写真は一眼で撮ったこの写真を使ってます。
もう、過去のことと微塵でも感じている人がいればこの写真が「今現在」のものと知ってほしい。
それを知った上で原発再稼働するなら、電力消費地に原発や最終処分場を置いてから話すべし!昨夜江井さまが「国や大都市の発想は小さきを犠牲にして多きをいかす・・・福島は被害者、屈してはいけない」といっていたように、好んで福島に来た自分も声を大にして訴えていきます。
たとえそれが少数であっても!この現実がある限り・・・・!
さて、浪江漁港をあとにして、さらに原発のあるほうへと進みます。
1kmちょい進んだでしょうか。
とある学校へと到着しました。
敷地内にはがれきが集まり同じぐらいの高さになってますが・・・・。
鎌田さまの話によると震災時、いち早くこの奥にある高台へ避難ができ犠牲者がなかったんだといってました。
この辺は10mもの津波で跡形もなくなり、避難した高台も1kmはゆうにある場所。
日ごろの訓練や危機意識があったからできたんでしょう、震災時明暗がでた学校が取りあげられてましたから・・・・。
人は城 人は石垣・・・戦国時代武田信玄は本拠地の甲府に城はつくらなかったといいます。
大きい堤防を作り「まさか」という感じで津波がそれを越え犠牲になった場所もあれば意識をもって対応した場所もあり、いくら頑丈なものを作っても、意識がともなってなければ結果被る被害は大きくなる。 ここでも「ハードだけでなくソフトを」ということがうかがえます
そして、浪江町と双葉町の境まで・・・・。
原発のところから2kmないぐらいの場所まで来ました。
流石にここから先へは入ることができません。
うっすらと見える煙突が・・・そう、すべての「元凶」であります。
道端ではトラクターが無残にも朽ち果ててました。
今農業にかかわっているのもあり、数百万するトラクターがこのようになっている・・・。
どれだけの損出を、どれだけの夢を朽ち果てさせたのか・・・感じずにはいられません。
ちなみに1.5kmのこの場所で線量を測ったら0.2~0.3でした。
放射能は平地にはたまりにくい・・・ということでしょうか。
近くの草むらで調べても同様の数値でした。
町境の場所から離れ、今度は浪江駅のほうへと向かいます。
その途中も痛すぎる光景が広がっており、言葉すら出ない気持ちに襲われてました。
いろんな方に見てもらいたい、感じてもらいたい・・・・。
そう感じずにはいられません・・・・・
一度制限区域を出、浪江駅へ、ここも関門があり警備されてましたが許可が出て入ります。
浪江駅周辺は完全の「そのまま」の状態で風化していました。
震災があり、崩れたり傾いたり、ガラスがわれたり道路にひびが入ったり・・・。
そしてそのまま避難を余儀なくされ2年以上も帰ることが出来なかった空間・・・。
駅前の外套は倒れてガラスの破片も飛び散ってました
駅前にある商店、傾いたままそのままになっております
駅前ロータリー
町内バスはナンバープレートを取り外したうえでそのまま放置されてます
駅前の案内看板、観光案内も今では観光はおろか立ち入ることすらままなりません
駅舎の中を覗くと、そのままになっているドリンクの販売ケースがありました
今は列車すら来ない浪江駅ホーム、いつになったらここに列車が来るのでしょうか
ホームの先にあるこの体育館・・・。
鎌田さまの話によると2011年4月完成だったといってました。
ここまでの建設費・・・これも東電は補償するのでしょうか?
ちょっと駅前から歩いてみます。
「ヘビには気を付けて」といわれてましたので足元に気を付けながら・・・。
当然ながら住宅も傾いたりして立ち入りを禁止しているところも多数見かけました
道路もところどころから草が生えてきて、廃墟としての年月を感じずにはおれません
とある商店をちょっと覗いてみました
中は商品すらそのままに散乱した店内がうかがえます
ちょっと大きめの病院・・・。
ここも本来なら震災の被害者の治療にフル回転のはずだったのに・・・。
完全に放置されてしまってました
他にもこんな感じで壁も崩れあらわになっている状態の光景も多数見かけました
浪江の駅周りを見て回っていたら、パトロールしていたおまわりさんに尋問をうけました。
ま、ほかに人がほとんどいない状況なので、目立つし仕方がないのですが・・・。
おまわりさんに対しフリージャーナリストのアフシンさんが熱く想いを語っていたのでおまわりさんも感心していたのですが、震災で浪江で任務中で殉職した警官の話をアフシンさんがしたら、そのおまわりさん「かつての同僚だった人だったんです・・・」といろいろ話してくれました。
どうしてもこの状態だと空き巣とかが多く、厳しく見回っているとはいえ、おまわりさんも同じように痛い想いで現状を見ているのでしょう・・・。
ここにきて、雨が強く降ってきました。
ちょうど視察している時だけ雨が降らなかった、という晴れ男ルイの特性を出しつつ今回のレポートは終わりになります。
鎌田さまにお礼を言い、アフシンさんとも別れ、相馬さまと2人で帰る車内は、溢れかえった思いもあり言葉が出ませんでした。
帰り道、制限区域外ですがコンビニがつぶれていたり
同じく帰り道、処分場にたくさんの黒い廃棄物があるのを見かけたり・・・。
3年3か月、東京に行くと、もう風化しつつあるのと対岸の火事みたいなことを言う風潮が見え隠れしてます、国の政策もしかり、しかし今でもこういう現状があるってこと、やはり来てみないと感じないとわからないと思います。
一人でも多くの人が、記事に共感し、もしくは福島に気を使ってくれるなら、と思い筆を置かせていただきます。
追記 記事編はここまでですが、一眼で撮った写真(今回掲載の写真はスマホ撮影)と動画も撮ってますので、別記事として後日アップしますのでよろしくお願いします。
3年3ヶ月がたち・・・被災地レポート 1日目
そこは、まだそのままであった。
お久しぶりです、ルイです。
先月、いつも良くしていただいていて喜多方復興支援隊で福島のため震災の復興、支援のために活躍されている相田さまに会う機会がありその時の話であります。
ちょっとその頃、腰痛もひどく、仕事でも行き詰まっていて悩んでいた時期でありそれを察して相田さまが声をかけていただいたもの。
そのとき紹介していただいたのが、臨床心理の先生でもあります、相馬さまであります。
この日は、自分の悩みとかを相談したりしましたが、相田さまが、「次週被災地へと行くんだけどいかがですか?いろいろとプラスになると思いますよ、と。
ルイは震災1年のときに久ノ浜を見に行ったことはあるものの、現状3年3ヶ月がたち気になっていたのと、めったにない事なので予定を合わせて同行することに決めました。
相馬さまは被災地での避難生活で苦しむ方々の「心のケア」を24時間体制で受け付けていて毎週南相馬の仮設住宅へ伺い献身的に心のケアをしています。
相談の電話は夜中に「いつ寝るの?」と聞きたくなるぐらい、心配になるぐらいに思えます。
月々の電話代が5万! でも「5万で命が救えるなら」と答えるところに凄みと」尊敬の念を感じる人で今回、その相馬さまの案内で、現地でイラン人ジャーナリストのアフシンさんと合流してルイとの3人で被災地を見て回っていくことになりました。
6月28日 朝一番でかねやまを出発、喜多方で相馬さまと合流、南相馬にある仮設住宅へと向かいます。
まずは福島市内を通過し、川俣町・・・・ここまではまだ普通の光景でしたが。
飯館村に入ると様相が一転します。
まず、「田んぼ」が荒廃してること。
いま、自分が農業に携わっているので余計強く感じます。
田んぼが田んぼでない風景は異常であり、そこに携われないという悔しさが痛いほどわかるんですよ、田植えや稲刈り以外でも水の管理、草刈など、ずっと田んぼを愛し続けた方々が目の前の田んぼに手をつけられない、ということ。畑も然り、土をいぢる事ができない苦悩・・・車の窓から感じる痛い光景がまず入ってきました。
そして飯館村からは避難制限が解除されたとはいえ「空き家」が多かったこと。制限が解除されても帰らない、帰れない、帰りたくない、いろんな事情がこうなっているんだな、そして店もやってなくて、ただ「除染してます」というのぼりとともに作業員が草を刈り土を集める姿が多々見かけました。
除染って・・・側溝や道路端あたりのことをやって除染完了なんですか?
山の上に降り注ぎそこから流れ出るのに麓のちょっとをやるだけですか?
3日で元に戻るよ・・・と地元の方もいってましたが「どれだけのことをやらかしたんだ!」里山もあっての地元の今までの生活が住むほんの回りだけの除染でやったつもりになっているのか?発想が東京の「それ」と同じ感覚で行っていること、そのギャップ、その想いでただただ光景を眺めていました。
飯館からさらに山道を越え南相馬へ・・・。
南相馬の町並みは普通の生活が一見ありましたが、ここも田んぼが荒廃してしまい光景に違和感が隠せません・・・。
そんなかんなで目的地である仮設住宅へ、ここをベースに行動していきます。
喜多方から南相馬まで下道で3時間弱、会津から意外に近い、というのが自分の感覚であります。
この南相馬にある仮設住宅は400ぐらいの世帯の方々が避難しておりましてすべては旧大高町の方々が入ります。ほかの仮設ではいろいろな所の方々が入っているのと比べれば少しはいいように見えますが、それでも今までの近所付き合いはなくなり同じ町とはいえ「知らない人」がほとんど、しかも仮設住宅ゆえに永続的な近所付き合いにもならずなかなか積極的になれないという現状がそこにはあります。
そして今まで築いてきた生活ができず、家族はバラバラになり若い人は町に出てしまいそしてそこでいついてしまう、仮設住宅で3年近くいて近くに家があってもかえるに帰れないのが2年も続き、その仮設住宅が収納もなく屋根も低い、壁は極薄く水まわりはもう使えなくなってきているところも多くあります。
こういう状態で、しかもやることがなく外にも出にくい状態だとどういう精神状態になるか・・・。行政はハードだけ考えて(それも遅遅として後手後手だが)ハイ終わりのような感じであるのが残念であります、ソフト面での支援もボランティアや民間任せでなく対応してほしいし、もっと「声」を聞くために行政の方々がどんどん現地の「生活」を体験し東京ではなく現地にて対策できるようにしないと…憤りを感じたしだいであります。
南相馬の仮設住宅に昼前につき、栃木県のアーティストで被災地で元気を与え続けて活動している「とちおとめ」さんと合流、相馬さまはアフシンさんと待ち合わせのために出かけている間、とちおとめさんの練習を聴かせていただきました。(とちおとめさんのライブの手伝いもかねて)
とてもステキな美声でついつい聞き入ってしまいましたが
その中で1曲、心に重く感じた曲が…。
「ふるさと 浪江」という曲。
別のライブの動画借りてきました。
聴いてください・・・・。
この日、仮設の集会所で行われたライブは仮設に住む方々の心を和ませました。
こういう活動一つ一つが少しであっても大きく貢献し活力を生む、もっともっとそのチカラを大きな和へとなるように!強く感じました。自分もこのチカラをいただけてホントありがとうございました。
時間は前後してしまいましたが相馬さんが今回取材したいと言ってきてたイラン人のフリージャーナリストであるアフシンさんを連れてきました。
アフシンさんは通算で15年近く日本にいるのもあり、通常の会話は気にならないぐらい、ひらがなぐらいならメールも打てるほど
そのアフシンさんは震災後70回も現地入りしていて撮った写真は5万枚というほど精力的に動いている。
アフシンさんが「震災のとき日本に8年いて良くしてもらったのに震災があって【じゃあね】なんてとてもいえない、ほとんどの外国人が逃げている中で現地へ足を運ばせたのであります。
「震災の記事をシブヤやシンジュクとかで書いて何がわかるんだ、現地へ行ってご飯を食べそこで寝泊まって記事を書かないといけない」と力強く語る、日本人よりアツイ日本人、というのが見た感想です。
今回、仮説住宅の集会所で1泊させていただいたのですが、集会所のそばの仮設住宅に住む、旧大高町町長である江井(えねい)さまがいろいろと面倒見ていただきました。
江井さまの仮設の家でいろいろ話を聞きましたが、今まで3世帯で暮らしていて地域のつながりがあった中、震災で家族は分断され若い人たちは都市で生活基盤を作り上げ、孫もいなくなり年寄りだけが残る。
当初1週間で戻れるかと思った避難生活が長引き一時帰宅できたのが1年半後に。
その当時のままの家は停電もあり冷蔵庫は中が腐敗し使い物にならない状態になり、ネズミがはびこり、外はイノシシ、キツネ、タヌキ、ヘビ等が増えてしまい、とある家だとニホンザルが縄張りにし家に近づこうとしたら威嚇されたという人もいたそうです。
3年3ヶ月、もう元通りには戻れない、自然災害ならいざ知らずこれはれっきとした人災、ちゃんとした生活の保障をしてもらわないといけない、その想いは痛くそして重く感じました。
ここまで聞いてて自分もかねてから、原発再開を言うぐらいなら電気を使っている都市圏に原発を作る、最終処分場を作るという覚悟でないと発言に重さがでないでしょうに、といったら
「以前、福島と新潟の原発をたてた時、安全をうたっている原発をなぜ都市圏におかないのか聞いたら、担当の人が口をちょっと滑らしたんですよ」
「もしかして・・・」
結局、小さきを犠牲にして大きを活かす・・・・。
「私たちは被害者、屈してはいけない、福島は我慢強いというが、言えば【バカ】なんですよ、もっともっと強く出ないと・・・・!」終始やさしい口調の中強い意志がそこにはこめられてました。
とちおとめさんのライブが終わりひと息ついた後に、江井さまの案内で被災地を見て回ることになりました。
ここの仮設住宅に避難しているかたがたが住んでいた旧小高町へ・・・・。
旧小高町は高台を除く地域は海岸線から3~4kmほどまで津波がきたとのことです。
海岸から2kmほど離れた場所で車を停めます。
この「白い袋」は除染でまとめたとのことであります。
そしてその場所に・・・・
のっけからビックリしたものが・・・・!
そう、船がそのままにありました。
どうやらこの地域は車はおおかた片付けたのですが船は法律上で片付けできないという「縦割り」行政のためにそのままになっているとのことです。
場所を移動してひとつ高台を越えていきます。
その途中の場所で高台で家が無事で庭で作業していたおばあちゃんにアフシンさんが取材をしてました。
アフシンさんは、2台のビデオカメラで記録映像をとってます、インタビューも1台はそのまま手に持ってもう1台は遠くにおいて全景を・・・といった感じで、見た目たちがい丁寧な口調で話しかけるので結構しゃべってくれます、アフシンさんの魅力なんでしょうね。
自分もカメラマンという立場なので、アフシンさんの助手として動きました。
・・・でも、オイラ震災1年の久ノ浜でも感情に負けてしまい言葉が出なかった写真が撮れなかった。
今回も写真は撮れましたが、やはり現場の雰囲気にのまれていて、「はぁぁ」とこの光景にひたすらのみこまれてしまい、周りに普通の感覚で接し得れなかったな、と後から気づきました。
さて、その高台から海岸線を撮りました。
この高台で約10mちょい、ギリギリのところまで津波が来たそうです
ちょっと高台から降りてとある1軒家へ・・・。
まだ築浅の家ですがなにか様子が違う・・・・。
そう、1階部分が津波でやられてましてそのままになっているんです・・・・。
2階の手前まできたようで2階はそのままになってました。
ただ、3年3ヶ月の爪あとは大きく、中はツバメが巣をつくりこちらをいぶかるように見てました。
そして海岸線へと向かいます。
この写真、一見空き地か田んぼか?と思われるでしょうが、住宅地だったんです。
全部流されちゃったんです・・・・。
とくに海岸線まで行くとその「跡」が顕著に伺えます。
そのまま写真だけでアップでも伝わるでしょう・・・・・。
海岸線に出まして江井さまから話を聞くと、下の写真の高台に津波があたり「上からふもとへ降りていった」のと正面から10mもの津波が2重にきて余計に被害を大きくした、その高台に逃げた人もいたのでは・・・・?
言葉も出ないまま海岸線から内陸のほうへと車を動かします。
そのままになっている光景に正直押しつぶされんばかりに無言で見入ってしまいました。
海岸線から3~4km離れようやくちゃんとした町並み、幹線道路が見える場所迄きました。
その前にちょっとした川もあったのでここまでかな?と思っていたんです。
その幹線道路にあるガソリンスタンドにて・・・
一見普通に営業している?!と思ったところだったんですが・・・・・。
わかりますかね?ハラス面真ん中に「線」があるのを・・・。
高さは1.2mほど・・・・
そう、このガソリンスタンド、「そのまま」の状態に残っていたんです。
中にはコインランドリーも兼ねていて衣服もあり、床は土砂に埋められ、従業員部屋は散乱しそこで1人亡くなったと聞きました。そのままの状態で残っているガソリンスタンド跡が車がバンバン走る幹線道路の横にある・・・・なんていったらいいのかとても口に出せられない感情でココロが支配されてしまいました。
その幹線道路からさらに1kmほど、ここにも船が・・・。
ここからはもう海は見えません・・・・。
この先さらに1kmほど、1m盛り土で走っていた常磐線線路のところまで津波が来ていたそうです。
久ノ浜での体験でも衝撃的だったのですが、住人の方の生の話も聞け3年3ヶ月の重みも含めそれ以上に衝撃な体験をしました。
このあと江井さまの家でとてもおいしい夕飯をいただき、さらに被災した住人のかたがたの話、アフシンさんのレポートの話と夜もいろいろと聞かせていただき、ようやく落ち着いたのが夜9時・・・
いろんなことを聞き、考え、目にしたのもあり、眠気がすぐにきて、集会所の片隅で早々に寝てしまいました・・・・・。
夜にかけて雨音が強くなるのを聞きながら・・・(仮設で音が大きく感じたのかもしれませんが)
翌日、それ以上の「衝撃」があったんですが・・・長くなったので「次回」へと続きます。
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